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花尊し

花尊し

南光坊

四国 八十八ヶ所霊場
四国霊場 八十八ヶ所

第五十五番札所

別宮山(べっくざん) 南光坊(なんこうぼう) 金剛院(こんごういん)
 

所在地:〒794-0026 愛媛県今治市別宮町3丁目1番地
電 話:0898-22-2916
交 通:JR予讃線今治駅から600m 徒歩5~10分
宿 坊:無
駐車場:有
環 境:町中にあるため周囲は賑やかで市民の参拝も多い。
参拝時間:境内自由

     
真 言:南無大通智勝仏(なむ、だいつうち、しょうぶつ)
本 尊:南光坊の本尊は法華経に出てくる大通智勝(だいつうちしょう)如来であり、
八十八ヶ所では南光坊だけが本尊とし、
大三島にある大山祇神社の神体「大山積神」が仏になった本地垂迹( ほんじすいじゃく )仏である。
信 仰:大山祗神社は大三島大明神で日本総鎮守。
河野水軍ゆかりの神社、海神として武将達が厚く信仰した。
大山祇神社は大三島にあり、今治港から高速船で35分、
しまなみ海道で陸続きになり直接車でも行ける。

開 基:行基菩薩?=越智玉澄
宗 派:真言宗醍醐派
御詠歌:このところ三島に(の)夢のさめぬれば別宮とても同じ垂迹( すいじゃく )

略縁起:
文武天皇(在位697~707)の勅願を受けて伊予の大守越智玉澄(おちたまずみ)が、
今治沖の大三島(おおみしま)に大山祇(おおやまずみ)神社を建立した。
大宝3年(703)、伊予(河野)水軍の祖といわれる"伊予の豪族 河野一族の先祖"、越智玉純は
瀬戸内海の今治沖(今治の北、船で1時間のところ)に浮かぶ大三島に
大山積明神(航海の安全祈願の神)を勧請して大山祗神社(おおやまつみじんじゃ)を建立し、
伊予の一の宮とし、御法楽所(別当寺)24坊を構えた。
和銅5年(712)、海を渡っての参詣が不便との理由で
同神社の別宮を越智郡日吉郷(現在の今治市)に移し、
24坊あった別当のうち南光坊など8坊を現在地一帯(今治)に移した。
かつては別宮大山積神社と隣接した別当寺であった南光坊、
弘法大師は四国巡錫の折り別宮に参拝し、坊で法楽をあげて(祈願して)霊地と定めた。
四国八十八ヶ所霊場で唯一「坊」の名を付している。
来島水軍の総大将、来島通総が16世紀に再建した拝殿は
切妻造檜皮葺の純和風建造物で県指定の文化財。
戦国時代(天正年間 1573~1592)、長曽我部軍の兵火に遭い8坊は焼失し、
秀吉の四国征伐で、河野一族は滅亡、別宮も荒廃するが、
8坊のうち禄の少ない南光坊のみがその後再興され明治維新まで大山祗神社の別当寺をつとめた。
慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈祷所として薬師堂が再建され、
次の久松藩からも信仰を得た。
明治の神仏分離(廃仏毀釈)により大山祇神社に奉安していた本尊
大通智勝(だいつうちしょう)如来を社殿から薬師堂に遷(うつ)し寺として独立した。
昭和20年(1945)空襲で大師堂と金毘羅堂(護摩堂)を残して堂塔のほとんどを焼失した。
昭和56年(1981)本堂がコンクリート造りで再建された。
平成の現在、山門を建立中である。

境 内:
建立中の山門から入ると先ず正面にコンクリート造りの本堂が目に付く。
途中右手に本堂と向い合って宝形造りの大師堂がある。
本堂の左手には護摩堂がある。
大師堂は屋根の四隅が跳ね上がった形で、
上部の相輪塔と相まって、
荒波の中を走る船の様相を呈している。
別宮大山祗神社と隣合わせで雑然としてまとまりのない印象は拭えないが、
夜の山門にある四天王のライトアップは幽玄の世界。
境内での野宿は遍路札を見せればよしとされる。
山寺のような趣きはないが、境内の楠は樹高17メートル、
樹齢300年以上の巨木で市の天然記念物になっている。

お 宝:書道家・川村驥山(きざん)が遍路行のとき被っていた菅笠が保存されている。
近隣寺:4キロごとにお寺があって、
56番 泰山寺、57番 栄福寺、58番 仙遊寺と続く。


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